文化祭前日の放課後、トリネは教員用控室の机へ歯ブラシを置いた。薄いタオルも、その隣へ畳んで置く。
古いテレビにゲーム機をつないでいたコンフィが、振り返った。
「それ、何の準備?」
「泊まる」
「ここに?」
「泊まってみたいから」
シキは広げていたカードを寄せ、歯ブラシの分だけ机を空けた。
「文化祭の準備で泊まるって聞いたんだけど」
「親にはそう言った」
「学校には?」
「言ってない。泊まっちゃだめだから」
コンフィの手から、ケーブルを留めるテープが長く垂れた。
文化祭の間だけ使えるこの部屋には、夜通し作らなければならない展示も、朝まで交代する当番もなかった。テレビとゲーム機はある。長机もある。寝ようと思えば、たぶん寝られる。
準備として足りていないのは、許可だけだった。
「帰るなら今だよ」
シキが言うと、コンフィは自分の鞄を開けた。充電器に替えの靴下、丸めた上着まで入っていた。
「もう持ってきちゃった。いや、泊まる気では来たんだけどさ」
「じゃあ三人」
「人数だけ確定しないで」
シキも机の下の荷物を引き寄せた。タオルが見えないように、少し奥へ押し込んだ。
*

夕食へ出る前に、トリネが財布の硬貨を数え直した。
一度全部出してみても、ラーメン一杯には届かなかった。しばらく机の硬貨を見ていたが、やがてシキの方を向いた。
「バードマン、七百円で売るよ」
シキは顔を上げた。普段三人がそう呼んでいるのは、《機環鳥人バードマン》という札だった。もう一枚欲しいとは思っていた。七百円なら、店で探すのとそう変わらない。
「状態は?」
「普通」
シキが財布を開けると、トリネも細いカードケースを開けた。机の上で七百円と一枚の札が入れ替わる。
描かれていたのは、羽の生えた古い鳥人だった。名前は《バードマン》。前にも後ろにも、それ以上は書いていない。
「こっち?」
「バードマンでしょ」
コンフィが横からのぞき、息を吸ったところで笑い出した。
この札は十円の箱に何枚もある。シキはカードを置き、トリネの財布へ手を伸ばした。
「返金して」
「あとで返す。ラーメンは今食べる」
トリネは財布を持ち上げ、七百円もまとめてしまった。
「使うのを待ってほしいんだけど」
シキが言っても、コンフィの笑いはしばらく止まらなかった。
*
ラーメンが来ると、三人とも静かになった。
トリネは麺を持ち上げ、コンフィは丼へ顔を近づけすぎて、湯気から一度顔を引いた。シキも返金の話をやめ、まずは冷めないうちに食べることにした。
店を出たトリネが、満足そうに息をつく。それからまた財布を開いた。
「朝まで起きてるなら、夜食いるよね」
「私はもう入らない」

コンフィが腹を押さえたが、トリネはコンビニの食品棚へ直行した。下の段から、もやしを一袋持ち上げる。
「これなら買えるわ」
コンフィも値札を見た。たしかに量だけなら強い。
会計を済ませると、トリネは袋を店員へ差し出した。
「これ、レンジで温めてもらえますか」
「こちらは温められません」
袋がそのまま戻ってきた。トリネは出口まで来てから、もう一度振り返った。
「食べ物なのに」
「全部の食べ物を温める店ではないよ」
シキの手にも透明な袋があった。カードケースへ入れる気になれない《バードマン》が、中からこちらを向いていた。
*
「大学の共用棟、湯沸かし器あったよね」
トリネの記憶を頼りに、三人は高校と同じ敷地の大学棟へ戻った。廊下にはまだ明かりがついていた。カップ麺に使う湯沸かし器も、記憶どおり端の流しにあった。
「お湯あった。コンフィ、ちょっと持って」
もやしを渡されたコンフィは、袋の口を開いたところで止まった。
「これに入れるの?」
「ほかに鍋ないし」
「袋は鍋ではないよ」
シキが言う間に、トリネは給湯ボタンへ指を伸ばしていた。
「お湯は入る」
コンフィは袋を流しに置き、上の方だけつまんだ。湯気の中でもやしがゆっくり沈んでいく。三人で見ていると、少しは料理に見えた。
「これ、もういいことにする?」
「温まってはいる」
シキの返事を聞いて、トリネが湯を捨てた。コンフィは濡れた指先を振り、ハンカチを探した。
それから三人は通りへ出て、ハンバーガー店へ入った。トリネがいちばん簡単なバーガーを買うと、コンフィは空いた席を確保し、シキは飲み物と一緒に紙ナプキンを多めに持ってきた。

席へ着いたトリネは、上のパンを外してもやしを載せた。一つまみでは足りず、もう一つまみ。パンを戻して押さえても、白い根が周囲へはみ出した。
「それが夜食?」
「もやしだけだと主食がない」
「ラーメンが先にいたよ」
トリネが口を開けたところで、店員がテーブルの横へ来た。
「恐れ入りますが、お持込みの食べ物は店内ではお控えください」
「バーガーはここで買いました」
「そちらの、もやしです」
トリネは両手の中を見た。隠すには、多すぎた。
上のパンを外し、挟んだばかりのもやしを袋へ戻す。最初の一つまみは簡単だった。ソースのついた細い根だけが、いつまでも肉の上に残った。
コンフィが紙ナプキンを広げて、袋を置く場所を作った。シキはその横へ、自分の透明なカード袋を置いた。
「そっちは戻してるんだね」
トリネの指が一度止まった。
「カードの方は名前合ってるよ」
「返金はまだだけどね」
トリネは残りの一本を取り、ようやくバーガーをかじった。さっきまでと違って、普通に持てた。
*

閉門前に校舎へ戻ると、廊下は半分ほど消灯されていた。
控室に荷物を下ろした途端、遠くで鍵の束が鳴った。トリネが振り返る。
「守衛」
コンフィが戸を静かに閉め、シキが机の上の物を床へ下ろした。三人で壁際へ寄ると、トリネの鞄が足に当たった。中でもやしの袋が鳴り、シキがすぐ手で押さえた。
足音が近づいた。一度止まり、また進む。隣の廊下まで遠ざかってから、コンフィが息を吐いた。
「今日いちばん見つかりそうなの、もやしだね」
「もう一回見つかってる」
トリネが鞄の口へ手を伸ばした。シキがその手首を押さえる。
「今はいい」
隣の廊下で、また鍵が鳴った。
部屋には、翌朝までに完成させる物が何もなかった。足音がしなくなってからカードを出し、飽きるとテレビの音を絞ってゲーム機をつけた。コンフィが負けそうになると声が大きくなり、シキが画面ではなく戸の方を見た。
夜が深くなる頃には、三人とも靴を脱いでいた。机の端には、どのデッキにも入らない《バードマン》が一枚残っていた。
*
翌朝、アオイは文化祭本部の長机で、ノートPCの画面を見ていた。
来るのが遅くなる担当を一つ後ろへ動かし、空いた時間へ別の名前を入れる。印刷済みのシフト表にも、同じ変更を鉛筆で書いた。消しゴムのかすを払って持ち上げると、その下から昨日の表が出てきた。そちらは置いていく。

校舎を回り、教員用控室の前まで来ると、中から三人が出てきた。
「早いね」
「昨日からいる」
コンフィの返事を聞き、アオイはトリネの鞄を見た。歯ブラシが覗いている。
「何してたの?」
「文化祭の準備」
トリネが言う横で、シキは袋に入った《バードマン》を持ち上げた。コンフィが鞄のもやしを指す。説明を始めると長くなるので、二人ともアオイを見た。
アオイはしばらく待った。
「それ、どっちも文化祭で使う?」
「使わない」
「じゃあ後で聞く」
シフト表を持ち直し、次の教室へ向かった。
*
文化祭が始まっても、控室の前には企画名の貼り紙がなかった。
トリネとコンフィがテレビの前で対戦し、シキは横で札を整理していた。廊下では呼び込みの声がする。中をのぞいていく人はいたが、三人と目が合う前に通り過ぎた。
「人、来ないね。呼び込みする?」
コンフィが画面を見たまま聞いた。
「何て呼ぶの」
「……カード持ってる人?」
「それなら私、廊下から戻ってくるよ」
シキは《バードマン》だけを机の端へ分けた。
「物販はなしね」
「もう売らないよ」
トリネが返すと、コンフィの操作が一瞬止まった。その隙に画面の決着がついた。

戸口で、一人の来場者が立ち止まっていた。机の札と、空いている椅子を見比べている。
「ここ、対戦できますか?」
「できる」
トリネはコントローラーを置き、机へ移ってケースを開いた。コンフィが椅子を引く。シキは《バードマン》を脇へ寄せ、二人分の場所を空けた。
休憩に来たアオイが、戸口からのぞいた。手のシフト表には、また鉛筆の線が増えていた。
「企画、あったんだ」
「今できた」
コンフィが答えた。
貼り紙のない戸の内側で、来場者が山札を切り始めた。

